前回ご紹介した「土楼の王」承啓楼(ショウケイロウ)のすぐ近くにも、見学可能で土楼が幾つかありました。今回はその中でも、より素朴で実際の生活が感じられる方形土楼・世澤楼(シセツロウ)を中心に、周辺の集落まで歩いてみた記録です。承啓楼が宗族の繁栄を象徴する建築だとすれば、世澤楼は、より素朴で生活に密着した土楼といえます。

こちらが歩いてすぐのところにある、世澤楼です。円環土楼ではなく、四方(方形)タイプの土楼です。
簡単に土楼の歴史を整理すると、初期の土楼は小規模(一族十数人程度)で、防御機能を重視した四角い「囲い型住居」でした。そこから社会情勢の変化や大家族・氏族が豊かで人が増えるにつれ、巨大な共同住宅型の土楼が建設されるようになりました。客家邸宅型建築といわれる五鳳楼(五つの鳳(棟)を持つ楼)は低層分棟型の大きな邸宅スタイルででした。そこから社会情勢が不安化するにつれ、氏族の集合住宅化と要塞化(壁が厚くなり、外壁の開口部が減ってゆく)が進み、高層階の四角形または長方形の方形楼へと変化していきます。そこからさらに氏族の繁栄と連帯感の表現や要塞化とが進み、死角がない円楼化が進みます(地形などの外的要因によっては半月形や五角形のものもあります)。
つまり、方形楼は円楼の前段階の形と言えます。

世澤楼も現在も人が住んでいる現役の土楼ですが、承啓楼ほど観光化されていない、素朴な土楼です。案内のツアーガイドが一緒であれば、上階に上がってゆくこともできます。

円環土楼のような複層になった構造はありませんが、四角い土楼の中に小さな小屋で作られた町があるような構成となっています。正面奥に先祖を祀る祠堂があり、小屋は今はお土産屋さんになっていますが、かつては厨房やゲストが泊まる部屋だったそうです。

1565年に建てられた土楼で建築面積は約 5,100 平方メートルとのこと、迷路のような複雑さはありませんが、構築的な作りとなっており、1階より2階がせり出しており、更に3階がせり出した構成となっています。

階段の様子です。四隅に階段があり、壁は日干し煉瓦、床と階段は木製となっています。火事に際しての避難口のサインは日本と同じですね。

上階に上がると、完全な木造となってきます。コーナーは隅切りされています。ところどころに部屋が飛び出しており、回廊のように循環することはできない構成になっています。
腰高の収納(内側が格子になっていて風通しがある)があって、その上に手すりが載っています。このような素朴な納まりの中に、共同生活の工夫が見えます。

手すりから見下ろすと瓦屋根が見えますが、ビスや金物等で固定されておらず、ただ重ねておかれているだけでした。もし大きな地震が起これば、瓦は一瞬で落ちてしまいそうなほど、素朴なつくりでした。

最上階まで登ると、回廊で四周を一周できる作りになっていました。

天井を見上げると、貫と束と垂木で支える典型的な木軸構造となっています。ただ、外壁側が土楼と言われる所以でもある厚みのある版築の土壁で作られています。

部屋の内部も覗けました。外壁側の窓の部分を見ると、いかに壁が厚いのかが良く分かります。

円楼も色々とあるようで、こちらの円楼は複層構造も小屋もなく、ただのオープンスペースとなっており、樹木が植えられており、ちょっとしたアゴラのような構成となっています。正面に見える祠堂の柱も柱頭のような飾り付きで、ちょっとバタ臭いデザインとなっています。土楼は比較的最近まで(1950年代頃まで)作られており、外国(特に東南アジア)でビジネスで成功した華僑が、故郷に錦を飾ってモダンな土楼を作るケースもあるそうです。
因みに1960年代に鉄筋コンクリート造の集合住宅が作られるようになって、一気に土楼の建築が止まってしまったそうです。堅牢性や施工のしやすさ、火事や地震にタイルする安全性を考えても、そうなることは自明の理ですね。

こちらでも、上階に行くに従って内側にせり出す構造になっているのが良く分かります。

街中には色々な所に大小の土楼がありました。こちらはランチを食べたレストランの横にあった土楼ですが、観光からは全く遠い所にあるような土楼で、

中もこのような素朴なもので、数人の人が住んでいるような状況のようです。土楼が世界遺産になったのは2008年のことで、それまでに打ち捨てられた土楼も多数あったようで、つい最近大都市の厦門(アモイ)から高速道路が通りましたが、それまでは日帰りで土楼を見て回るのが難しいほどのへき地だったそうです。

元々の土楼は、盗賊に狙われにくい山中にあり、周りの畑で自給自足生活をしていたのが、世界遺産で観光客が急増して生活も大きく変わったそうです。土楼を観光化してうまくお金儲けをした人は近くに新築のお宅を作ったり、却ってそのことで打ち捨てられりと大きく環境が変わっているそうです。
この段々畑の右奥に見えているのは、田螺坑土楼群です。

望遠カメラで見ると、このように円と四角の楼が折り重なっているようになっています。この写真の右上にある展望台まで登って見下ろすと…、

このように見えるのです。円楼の中を細かく覗き込むと、服が干してあったりで、人が暮らしているのが分かりますね。こちらも時間がなく、内部を見ることができませんでした。五鳳楼やより古い土楼なども見学したかったのですが、残念ながら時間切れでした。
長い年月のあいだ人を守り、共同体の絆を支えてきた土楼も、今では観光と生活のはざまで新しい形へと姿を変えつつあります。それでも、厚い土壁や木の階段に残る生活の痕跡には、初期の集合住宅ならではの工夫と知恵を見ることができました。と同時に、今の高密度ながら住人同士の繋がりが乏しい集合住宅の住まい方に、少し疑問も感じました。何百年も前の土楼の内部には、家族や共同体の関係性を建築で支えようとした意志が強く見えました。