不思議なご縁で、各務の曽祖父に当たる各務鎌吉が施主として、建築家の木下益治郎氏に設計を依頼して作られた住宅を見学して参りました。
昨年亡くなった父、各務謙蔵からは、練馬の農場の話は良く聞いておりました。とにかく広い敷地には農場だけでなく牧場まであり、多くの人が働いており、幾つかあった別荘の一つのように使っていたとのことでした。
戦時中には、まだ小学生だった父はこちらの家に疎開しており、隣地にあった陸軍の成増飛行場(現光が丘団地)から特攻隊として出てゆく学徒出陣の人たちに可愛がられたエピソードも聞いておりました。
こちらの写真は、父より6つほど年上の伯母が小学生の頃にこちらの庭で撮影した写真です。建物が建てられた年数から考えると、まだこの頃は新しく建てられて数年の頃だったようです。
農地は戦後はGHQに接収されてしまったことは聞いていたので、その際に建物も壊されてしまっていると思っておりましたが、その後、色々な経緯があって少しの改修もされながら個人の方がつい最近まで所有されていたそうです。事情があって現所有会社に譲られたとのことで、つい最近、その所有会社からの許可を貰って調査した建築家の方が屋根裏から各務鎌吉や木下益治郎氏の名前を見つけて、建物の由来が判ってきたそうです。 その経緯で、こちらにお話が合って、所有会社のご厚意もあって今回見学することができました。
農場に付属する住宅ということで、元々は通り土間だった空間は、このような玄関に改装されていました。
玄関入って左手には、このような洋館の作りの応接室があります。ストーブが設置されている個所は暖炉だったでしょう。父からは、戦中には隣地の陸軍飛行場には貴賓を歓待する施設がなかったとのことで、こちらの建物を臨時に貸していた話を聞いておりましたが、この空間を貸していたのかもしれません。
その横には通用口とこのようなトイレがありました。土間で続いていたので、農作業の姿のまま使うことを想定していたのでしょうか。
玄関ホールから向かって右側が住居部分になっていました。
こちらにももう一つ応接室が残っていました。先ほどの応接室より、もう少しカジュアルな造りで、家族で食事をとるようなスペースだったのかもしれません。
その隣からは純和風な部屋が続いています。
庭に面した縁側です。こちらに面した障子は全て、雪見障子となっていました。ちょっと風格のある和風旅館のような様子ですね。
2階建てとなっており、二本の階段が上階へと続いています。写真では伝わりにくいのですが、とても緩やかな勾配でゆとりのある作りとなっていました。
2階には6畳と4畳の、屋根裏部屋的な個室が左右に並んでいます。
中央にはシャワーと洗面手洗いがあり、多人数での宿泊ができるようになっていたのかもしれません。
もう一つの階段はハイサイドライトがあって明るい空間でした。
手すり部分には、このような透かし彫りがはめ込まれていました。和洋折衷な建物ですが、この透かし堀りはちょっとフランク・ロイド・ライト風でした。
玄関ホールにはおかれていたのが、この上棟時の記念の札でした。
建築主が曽祖父の各務鎌吉、設計者が木下益治郎氏、大工の棟梁が佐藤鉄三郎氏と読めます。この札のお陰で、こちらにも案内が届いたという訳です。
見学会当日には、建築家木下益治郎氏の研究をなさっている方もいらして、上記のような資料を見せて頂きました。曽祖父の各務鎌吉、祖父の澤田退蔵(うちの父親は澤田家の次男として生まれ、のちに祖父にあたる各務の家に養子入りしています)や、僕にとっての大伯父の澤田節蔵も木下氏に色々な設計を依頼していたことが判りました。
こちらの資料では、澤田退蔵のところに書いてある後楽社農園が、今回見学させて頂いた建物の名前となります。見学会をお世話して下さった建築家協会再生部会の建築家の大橋智子さまが教えてくだった練馬区史の資料には、この後楽社農園のことが以下のように紹介されています。
「後楽社は昭和七年、日本郵船の各務社長によってつくられた一〇町歩(一万㎡)余りの 西洋式農園で、無農薬、無公害、新鮮さを売物に、自家用農園としてつくられたもので、 牛、山羊、豚、温室、果樹、養鶏、養蜂、花卉、茶畑から、ベビーゴルフ等、バター、 チーズ、ベーコンの製造も小規模ながら行ない、付近農家から農民を傭い、失業救済の 役目を果し、また新しい農業技術の導入もしたのであるが、その頃はまだそうした 農法の普及には至らなかった。戦後の農地解放で廃園となった。
昨年6月に亡くなった父が、この住宅を見学することができたら、どんなに喜んだろうと想像すると、感慨深いものがあります。家族の歴史にも関わっており、そして歴史的にも貴重な建物を見学させて頂けたこと、とても嬉しく思っております。
この見学の数日後、残念ながらも建物が取り壊される日程が決まったとの連絡を現所有会社のご担当者から連絡を頂き、棟上げ式ならぬ棟下式に伺って参りました。
きれいに清められた住宅の玄関前に、祭壇が組まれておりました。
幼少時代を過ごされたという前オーナーのご子息夫妻、建築家・木下益治郎氏の孫に当たられる方、そして各務家の後裔の一員として僕と妻、更には建物の記録を調べて下さった大橋さんや伊郷さんたち建築家有志の方々、更には建築家・木下益治郎氏の研究をしてる二村さん等が参加しての、こじんまりとした式でした。
神主さんの陣頭指揮のもと、関連する方々の後に従って、僕も建物の四隅に清めの清酒を撒かせて頂きました。式の後には、現所有会社のご厚意で、建物の思い出を語る会が建物内で開かれ、父親から聞いていた、隣地の飛行場の学徒動員の人たちとの交流などの話をさせて頂きました。
本当に不思議なご縁で、曽祖父や祖父の関係した家の最後に関われたこと、何かの導きがあったようで幸せなひと時となりました。